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学校スタッフリレーエッセイ「わたぼうし」

20151月】「福祉が問われるとき

余村 望

雨上がりの街並みを眺めていた。この二十年の間に随分と背を伸ばした桜の枝葉が静かにしずくの光を落としている。その清廉さの先に、捨てられて息をしなくなった小さな白い買物袋が張り付いているのが目に止まった。

幼かった頃、母親は買い物に行くのに必ず竹で編んだ買物籠を持って行った。母親がそれを持てば買物と分かるから、物欲しさに付いて行くのだ。小さな駄菓子は茶色くて薄い紙袋に入れてもらう。濡れてしまうとすぐに破けてしまうのが難だった。だが、視線の先の白い買物袋はいつまでも白いままだ。何時だったか庭に植栽をしようとして掘った土の中から出てきたこともあった。その役割を終えても消えることがない。

戦後日本の経済発展をもたらした主力産業の一つは石油化学工業だった。合成樹脂から作られる白い買物袋が現われたのは昭和50年頃だっただろうか。それは経済成長の象徴と言えるものだった。そして、現代においてもそれは変わっていない。消費者ニーズを掘り起こし、シェアを拡大するという市場原理に乗って今も白い買物袋は拡がり続けている。

市場では、大量の生産と消費が益を生む。だが、市場社会が生み出すものは益ばかりではない。永続的に益を追求し消費の上澄みをすくい取ることは、等しく灰汁(あく)を生むことでもある。北太平洋を浮遊する広大なプラスチックゴミがつくる島、プラスチック・オーシャンと呼ばれる太平洋ゴミベルトはその象徴的な産物だ。肉眼で確認できていたプラスチックは、やがて光分解によって微細化し、海面を漂流し、他の毒性をも吸収し、生体に入り込む。最悪の場合死を招くと言われている。全て人間の所業であって、やがて清算と廃棄の負の連鎖が我が身を汚すことに他ならない。

人が、この人の世を生き抜くということが思うほど簡単なことではないと、この歳になって今更ながら思う。益を求めて灰汁にまみれる現実を目の当たりにすることの多さにげんなりすることも少なくない。とは言え、益なくして生き続けることができないことも事実である。ならばどのように生きるか。

今年、福祉という言葉の意味が最も問われる時代に突入した実感がある。経済発展の裏の灰汁の処し方、灰汁を生まない自らの有り様への問い方を、桟敷の外におかれた福祉が指し示すことになる。平成27年が、福祉が問われる年になることを願っている。


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